国が進めた全国自動車国道計画

昭和18年に内務省は、戦時下での輸送体系の確立と国防的見地から「全国自動車国道計画」を立案しました。この計画では、北海道から九州の海岸線沿いに幹線道路をループ状に造り、必要な箇所に横断道を配置し、東京~名古屋間は東海道沿いに計画されています。現在の山陽自動車道や東北自動車道などはほぼこの計画図と近い位置にあることが分かります。

田中プランの中央道

一方の田中プランでは、未活用地域の国土開発が目的のため本州の中央山地部を縦貫する幹線道路を造り、そこから海岸線に向かって肋骨上に連絡道路を配置しているのが特徴です。
九州南部や四国にも高速道路が計画されており、名神高速道路にあたる部分 (田中プランでいう「中央自動車道」) は現在とほぼ同じ位置にあります。

田中清一は、先進的で大胆な国土開発構想への誤解や誹りの矢面に立たされた時期もありました。
しかし、「長い目で見て日本の力を引き上げるような道路を」道造りでなく国造りという田中清一の大胆で前向きな構想に、周りは強く揺り動かされ、建設までの道をたどるのです。

田中プランの
中央道
建設の歩み

昭和15年1月

総合国土計画研究所を設立

昭和12年頃より平和のための国土計画の方法を模索し始め総合国土計画研究所を設立。

昭和16年

隧道工場(地下工場)を構想する

昭和20年8月

終戦後、東久邇宮稔彦首相に招かれ、縦貫自動車道構想を提言

昭和22年

「平和国家建設・国土計画大綱」を政府に提出

GHQにて同構想が審議され、構想が「田中プラン」と命名される。

昭和24年10月

天皇・皇后両陛下に田中プランを御説明申し上げる

GHQ主催により東京日本橋・三越会場で開催された「国土計画展覧会」で、天皇・皇后両陛下に田中プランをご説明申し上げ、天皇陛下より「理想的な国土計画の実現を期待する」と御激励の御言葉を賜る。

昭和27年

清一、衆議院・参議院へ「国土開発中央道建設案 (嘆願書)」を提出

昭和28年2月

国土建設推進連盟を結成

昭和29年

「国土開発中央道調査審議会」 が設置される

各界に呼びかけ、国民に対して啓蒙を続けた努力が政府を動かし、吉田茂総理の指令で、建設省内に設置された。審議会のメンバーにはのちに日本道路公団総裁となる富樫凱一氏も。以降、各政党で国 土開発の研究熱が高まる。

昭和30年

国土建設一円会が結成される

「国土開発縦貫自動車道建設法案」 を作成

「東名・名神」をと考えていた建設省だが、日本の開発ブロックを北海道・東北・中央・中国・九州・四国の6つに分け、全国を縦断する自動車道を「基幹線」として建設し、これに大平洋岸と日本海岸の重要な箇所を連結する「肋骨道路」を建設する方向で法案が作成された。

超党派の衆議院議員430人が署名して、清一の 法案が国会に提出される

党派を超えた430人もの議員が法案を推した。戦時中の挙国一致体制を除き、戦後においては空前の出来事だった。

昭和31年

日本道路公団誕生

昭和32年

「国土開発縦貫自動車道建設法」 国会で成立

昭和38年

名神高速道路 尼崎~粟東間開通

昭和40年までに、まず名神が開通。その後、昭和42年12月に中央道の調布~八王子間が開通、続いて東名の東京~厚木と開通していった。

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